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イエス様への究極の中傷

マルコによる福音書3:19-35

 マルコ福音書は本当によく生きておられるイエス様を描きます。イエス様の伝道の実感、そしてそれに自分たちを重ね合わせて描くマルコ福音書の記者、マルコ教会の人の生活実感が伝わってまいります。マルコ福音書は大人のイエス様から始まって、そしてガリラヤへ戻られるイエス様でもともと終わっていた。ガリラヤ、生前の宣教現場。宣教の現場で弟子たちと共に働きそこで出会えるイエス様。復活のイエス様の物語は私たちのところへ続いて行くのですね。それがマルコ福音書です。

 この記事の直後の種まきの譬えには福音の種を蒔くことの実感が込められています。この箇所はともすれば自分はどの種なのか、よい種にならなければと読んでしまいがちですが、そう読む必要はなくて、一生懸命蒔いてもこうだよ、ということを語りたいのですね。一粒のからし種は福音の力を語りたいのです。次の突風を鎮める話は教会の苦難とそれをおさめられるキリストが描かれています。

 そういう風に読んでいきますと今日の箇所はどう読めるか。結構どこの牧師さんも見当違いも甚だしい、内部分裂するなみたいな教訓を引き出して読んでしまうのですが、そうではないのですね。食事をする間もない位の人たちが集まっている。家族はここで二回立ち現われているんですが、一度は取り押さえようとして来た。始めたことが一族の恥となる。悪霊の追放や病気の癒しなどしていて、気が狂ったと思ったからです。

 律法学者たちはそのイエス様の業を見て、悪霊に憑りつかれているのだ、ベルゼブルに憑りつかれているのだと誹謗中傷をしました。ベルゼブルとは住居の主、という意味でベルはバアルなのですね。当時のユダヤにはしかし、悪魔をベルゼブルと呼ぶことはなかったそうで、詳細は不明だそうです。

 イエス様は良い業を沢山しているのだけれども、それは悪霊の頭の力によるのであって、神様の力ではないのだ、というのですね。すごい誹謗中傷です。それは良い業を台無しにしてしまうだけの威力があります。大きなことをやればやるだけ、それは悪魔の力ということにされてしまうからです。

 それに対してイエス様は痛みを覚えられた。いつになく強い口調にそれがうかがわれます。サタンの内部対立で自分は手下のサタンを追い出しているのではないのだ。自分の宣教はそんなものではないのだ。

 そして自分を汚す罪、自分を誹謗中傷することは許されても、自分に力を与えている神、聖霊なる神を汚すことは許されないのだ、というのですね。ここの箇所もこの言葉だけを取り出して聖霊を汚す罪は赦されない、とくよくよするクリスチャンに出会うことがありますが、そうではないのです。そんなことを言っているのではなくて、イエス様が行っているよい宣教の業、神の国の福音そのものの根源が、悪魔だという。そういう根底的な否定への激しいイエス様のお気持ちなのです。

 まず、自分は神からの霊を受けて宣教を始めるように導かれた。そして使命を与えられてメシアとして立たされた。そのことの全否定がそこにあります。召し出しの意味、自分が掴んでいる使命の意味への全否定があります。それはとりもなおさず、その人の全存在的な否定であります。

 そして彼のやって来たこと、業績。多くの人が癒され家族に戻され、社会的に回復し、人並みの人生を送ることが出来るようになった。そうやって神の国が来ているのに、沢山の人が救われて喜んでいるのに、それを根底的に悪魔の業とされてしまうということは、功績そのものを灰燼に帰してしまう否定であるわけです。

 イエス様は大酒のみといってもいい。罪人と食事を共にしていると言ってもいい。でもその受けている霊が悪霊だという汚し事は決して許されることはない。痛みに満ちた強い感情が表現されるのです。

 聖霊伝道をしていますと、イエス様と同じ目に合うのですね。以前、あるクリスチャンが礼拝に来られました。その方はオウム真理教の子供たちのルポルタージュを書いたルポライターでした。私のHPのファンでした。しかしとても、人間として難しい方、複雑な感情をお持ちの方でした。

 手を置いて祈って欲しいとリクエストがあり、祈らせていただきました。何が気に入らなかったのか分かりませんが、「先生の按手と麻原彰晃の按手とどこが違うのですか。」と面と向かって言われました。その質問自体が大変失礼であると私はさすがに怒りました。そしたら食い下がり、「先生には説明責任がある。」というのですね。イエス様の説明を繰り返すしかありませんよね。説明なんて出来る筈がありませんのです。

 その時に本当に思いました。自分は召し出しをいただいて人のために祈らせていただいて来た。それをテロをした麻原と一緒にされてしまった。ものすごい屈辱感でした。

 しかし、思い返してみればこの思いはイエス様の思いであった。この屈辱感は私だけのものではない。イエス様が味わって下さっているものだった。「主のうけぬ試みも主の知らぬ悲しみも現世にあらじかし、いずこにも御跡みゆ」という讃美歌があります。これはイエス様もどんぴしゃりご存知なんだ。イエス様の歩まれた後を自分も歩かされているんだ。そのことが本当に慰めだったのですね。

 この教会も聖霊の働きが強められています。ペンテコステのあたりで異言を沢山の人がいただき、そして七月の末には大きな癒しがあった。そしてそれに伴いいろいろな不思議なことが体験されている。

 それをイエス様のような中傷をうけることがあるかもしれないし、それ自体のインパクトがある。しかし、そんなことは全部イエス様はご存知だ。アタックもご存知だ。本当に自分たちのしていることがイエス様に知られている。完全に知っていて下さっている。かつて体験されて、なおかつされに勝利されている。そのことにしっかり立ってまいりましょう。

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