暗い世界に輝く光
イザヤ書8:23-9:1
今日からキリストの降誕を待ち望むアドベントになります。
今日の聖書の箇所はこのシーズンによく読まれる箇所です。ゼブルンの地、ナフタリの地とはどんな場所なのでしょうか。そこはかつてイスラエル12部族のゼブルン族とナフタリ族の領地であった場所で、当時はガリラヤ地方と呼ばれていました。その歴史的背景は次のようなものでした。紀元前8世紀、アッシリア帝国の台頭を恐れたダマスコと北イスラエル王国は反アッシリア同盟を結びます。そして南ユダ王国にも同盟に加わるよう求めます。しかし南ユダ王国が同盟に加わらなかったので、彼らは南ユダ王国に攻め込みます。その時預言者イザヤは恐れるな、静かにしていなさいと、アハズ王に語ります。しかし王はそれを無視して、なんとアッシリアに援助を求めます。そこでアッシリアはダマスコを破り、北イスラエルの北部、ガリラヤ地方を攻略するのです。この悲惨な状況の時、預言者イザヤは、メシアの出現を預言したのです。それがこの箇所です。その後、アッシリアに捕囚となった人々は、アッシリア人の血が混じって、純粋な南のユダヤ人から見れば、完全に堕落した民、滅ぼされてしまった民となってしまいました。その子孫が、サマリヤ地方の人々で、イエス様の時代になっても人種的宗教的な差別が続いていました。(サマリヤの女、良きサマリヤ人の例)また、同じように、ガリラヤ地方も異邦人が住み着く辺境の地となって行ってしまったのでした。
しかし、預言者イザヤは、やがて時が来れば、そのような呪われた地、滅ぼされてしまった地に神の栄光が現れるということを預言したのでした。それがこの9章の言葉です。イザヤは、そのような地にも、いやそのような苦難と闇と苦悩の地であるが故にこそ、やがてそこに大いなる光が輝き渡るということを預言しました。そのような死の陰の地に住む人々こそ、神の栄光を受ける時が来るということを預言したのです。それがこの9章の言葉です。
私は最近起きた事件のことを今週は書き続けて来ました。それは渋谷区である女性ホームレスが殴り殺された事件です。バス停のベンチで休んでいた女性を不意に近所の男性が殴りつけ殺してしまった。あとで判明して来たことでは男性はひきこもりで精神障害だった。そして殺された人はホームレス歴が短い人で、近所の人の差し入れを受け付けなかった。
この構図を政治の貧困のせいにしていた政治家さんがいました。また、社会の差別と排除のせいと言っていた実践者+牧師さんもいました。ホームレスを救出しなかったことが差別というのです。
しかし、私は津久井やまゆり園と同じような構図を感じていました。つまり弱者、時代の空気を吸い毒気に当てられている弱者がもっと弱いものを殺してしまった事件ということです。かつてインド漂流という写真集を出した藤原信也という写真家がインドを評して、犬のように生きているものが犬のように死んでいくものをあざ笑う世界、と言っていましたが、日本も今はそうなったのだと思いました。
ひきこもり、と聞いたときに私にはすぐに感じたのは彼は発達障害か精神障害だなと思いました。自分のしたことと結果が結びついていないところから、そして自分の引きこもる窓の切り取られた風景からごみのような被害者を排除しようとしたということから想像すると、知的にはボーダーラインか軽度知的、発達障害もあり、二次障害として鬱か何かがあると思いました。働いたともあるということなので、挫折体験があり、若い頃から引きこもって来たのに違いありません。
そして女性の方は単身で働いて来て、たぶんコロナ禍の中で失業、失業保険を取る様な資格もなく、アパートを追い出され、路上で暮らして来た。精神障害とかがある可能性もあります。今のホームレスは六割が精神または知的障害であることが知られ、人と関わりたくない、人の世話になりたくない。自分で何とかするという意識が強い。路上引きこもりといってもいいと森川すいめいさんが言っていました。
本当に引きこもりをしていて、家を追い出されて路上生活になっている人も多いのです。目立つ人ならだれかが福祉に繋げようと声をかけている可能性が高い。しかし、それを女性は拒否していた。
コロナ禍の中で感染が拡大し先が見えない。それだけでも十分に暗いのですが、本当に生きづらさを似たようなものを抱えた人が殺し合った。世の中の暗さがどうにもならないように思えます。
しかし、キリストが来てくださったのはそのような暗がり、先の燃えない暗がりの中なのです。苦悩の地であればこそ、ここに来てくださる。何の準備もなく迎えられるような条件がない、その中にこそキリストは来てくださる。光として来てくださる。そして照らして下さる。恵み、ですね。本当に恵みとしてか言いようがない。私たちはこの恵みを受け取って参りたいと思うのです。