神が何をして下さったかを知った心
ヘブライ人への手紙9:1-14
ヘブライを読んで来ましたが、大祭司キリストについてずっと、語られていました。今日の箇所は神殿の描写から始まります。
この描写も実は、著者自体が七十人訳をもとにしただけで、見たことはなく、それほど正確なものではありません。聖書はかなり長いこと、ギリシア語に訳された七十人訳が古代教会では使われていました。
七十人訳はエジプトのファラオプトレマイオス二世が七十二人の訳者に七十二日間の突貫工事で翻訳させたという伝説のある聖書です。プトレマイオス朝はグレコ・マケドニア人の国家であり、プトレマイオス朝はクレオパトラの息子15世で終わります。多神教でギリシアの神々、エジプトの神々、そして王や英雄の崇拝等が行われていました。そういう背景の中で沢山のもはやヘブライ語の読み書きできない沢山のユダヤ人たちが暮らしていまして、その人たちのために翻訳がなされたと言われます。この聖書はギリシア系知識人たちに対してユダヤの歴史の古さや優越性を伝えるために編纂されたと言われ、地名のギリシャ語読みやギリシャ人の信仰に配慮しながら優越性を訴えているなどの特色があります。尚、パウロが旧約聖書と言っているのは主としてこれのことです。
二つ部屋があるように書かれていますけれど、そうではなくて、幕で二つの部分に仕切られているだけです。聖所にも至聖所にもいろいろ、イスラエル民族にとって意味のある記念のものが置かれていました。例えば契約の箱や十戒の石板、マナを入れた壺、等がかつては置かれていました。第二神殿ではもはや略奪等によって失われ、ヘロデ神殿にはこれらはありませんでした。ですから、この聖書箇所は古の第一神殿のことについて書かれているのですね。
聖所には祭司たちが入って礼拝しましたが、至聖所には年に一度、大祭司だけが入ることを許されました。そして祭司は三度、この日に聖所に入りました。一度は香炉をたくために、二度目は雄牛の血を携えて、自分と自分の家族の罪、過失を贖うためにです。三度目は民のために、雄山羊の血を携えて入りました。
そうして、血が流されることによって、神と人との距離は解消され、道が開かれると信じられていたのです。
しかし、いくら動物の血が流されても、人間の良心は完全になることはありませんでした。ヘブライ思想では人間誰にでも、良心があることを認めます。しかし、その良心は神から離れることによって、歪み、完全ではなくなっている。そういう意味で、誰もが歪んだ良心を抱えて生きているというのです。
けれども、以下、人間の手でつくられた神殿ではなく、キリストは至聖所の奥深く入り、ご自身の身体を意志を以て、生贄として捧げられた。その完全な贖いは、十字架の死は、民たちの上に血や灰が降りかけられて罪を清められた以上に、私たちの良心を清めて、私たちを神を心から礼拝するものに、聖霊によって作りかえるというのです。
何故、キリストの振りかけられた血、聖霊によって知らされるその十字架の出来事は、私たちの良心を清め、礼拝者に変えるというのでしょうか。
それは神が、どのような方であるのかを私たちが聖霊によって深く知るからです。神は私たちの罪、私たちのしでかしたことを、自らの身体で責任を取る方、自ら血を流すことによって責任を取る方であることを、私たちが知るからであります。
私たちの良心はいい加減で変わりやすく、どうにもならないものです。私は信仰を持たない人でもいい人はいる、という言葉を信じません。信仰を持っていても悪い人はいるということは認めますが。
誰かが私のために命を棄てた、ということは私たちにとってずしり、と来る事柄です。その死が悲惨であればあるだけ、なおさらです。十字架の死はこの世で最も悲惨な死の一つでした。長く続く、苦痛の死でした。神はそのような死をご自分のものとなさる方である。そのような死が私たちに刻みつけられる。私のために神が、あのお方が苦しみを受けて死んでくださった。そうやって私を引き受けて下さった。それが私たちの胸に刻みつけられる。その時、私たちは変わらざるを得ない。神を礼拝せずにはおられないのであります。聖霊はその時に共に働いて私たちを礼拝するものに変えるのであります。
私が26歳の時キリストに出会い直した時、この度の船の右側にも書いたのですが、私は自分の愛のなさ、人間としての限界と血を流しながら格闘していました。そしてどうしても超えられない愛の壁、自分の限界というものの前に自暴自棄になっていました。自分、が問題でした。
自暴自棄になっていた時にある書物を通して語られました。「あなたの罪を下さい」と。私は「私の罪を差し上げます。罪を抱えたままの私を差し上げます。」と申し上げました。するとその途端に私の中に愛が、聖霊の油が音を立てて流れ込んできました。
その時に分かったこと、は私という人間は私が、ダメだといったらその下からキリストは私を背負って下さるということだったのです。
私は高慢ちきという名前の敷物に寝そべっていたら、手も足もくっついてしまって動けなくなってしまった猫「コマンチキンのネコ」という短い話を書いていました。自分ではどうにもならない。しかし、不意に与えられたラストは予想と違って、その敷き革の下から背負われていることが分かって猫がうれし泣きをする、というものでした。神はどこまでも私を担って下さる。そのための十字架なんだ。そのための苦しみなんだ。それがどこまでも迫ってやまなかったのです。
それが原体験になって私は変えられました。自分が人からどう見えるのか、自分にとってどうなのか、はどうでもよくなりました。突破してしまった。ただどこまでも背負われている私、だけがある。
私はですから、ペンテコステ的過ぎる要求の祈りには抵抗があるのですね。既に何をして下さったかが骨身に染みているからです。あまりに欲をかいた祈りは出来ない。また神に文句をいうこともありますが、それでもね、私には神が何をして下さったかして下さっているのか、が骨身身に染みているので、それを踏まえてのことなのです。
私たち、ダメなんだよ。だめなんだけれど、この私をイエス様は引き受けていて下さるのです。足りなさ、限界、醜さ、弱さ、ダメならだめなほど、その下からもっともっと深いところから私達を背負っていて下さる。私はダメだ、あなたを背負っている。の繰り返し。どこまでもどこまでも。それが生ける神を礼拝させられるということなんだよ。あなたたちもそれをもっともっと体験してください。それを願います。